福岡三裕プロフィール

福岡三裕からのご挨拶

JPBA46期ライセンスNO.1127福岡三裕です。このページをご覧になって頂き、ありがとうございます!

当ブログは主にアマチュアのボウリング選手をターゲットとして、ボウリングの楽しさを伝えることはもちろん、共に技術の向上をはかり、ボウリング業界をもっともっと盛り上げていくことを目的に開設致しました。

僕のことを知っている方は耳にタコができるくらい聞いていると思いますが…

僕がアメリカ留学で学んだ、「科学するボウリング=テクニカル」を日本で広げ、テクニカルを駆使して成果を出す「テクニカルボウラー」となりうる人財を輩出していきたいと考えています。

テクニカルボウラーが日本のトップはもちろん世界を獲ることを夢見て、発信を続けていきたいと思いますので、今後とも宜しくお願い致します。

…さて、とはいえ、この記事を見ている方の中には僕のことをよくご存じない方もいらっしゃるかと思いますので、僕がどんな人間で、どんな想いをもって活動してきたのか、そのストーリーをお話させて頂きますね^^

福岡三裕の青年期

今でこそプロボウラーとして活動させて頂いていますが、ボウリングは子供の時に子ども会で遊んで投げる程度で、全くやったことはありません。せいぜい、1年に1回くらい遊んだくらいですね^^

小学校の頃は、バスケットをやってました。ゴールにシュートが吸い込まれる感じが楽しくて毎日やってましたね!中学高校とバスケで青春を過ごしました。

高校3年で、就職か進学かで悩んだ時に、「まだ遊びたい!」と思っていたので大阪の専門学校へ進学しました。

公務員を目指していたので(意外に御堅い仕事を選んでたんです^^)まじめに勉強、、、、は全くせず、大阪の日々を楽しんでました。

ずっと優秀な弟と比べられていたので一人暮らしの大阪は本当に最高でした!「僕自身を見てくれる」これが本当にうれしくて、仲間と一緒に毎日遊んでましたね!

衝撃的な事件が起こり、人生の岐路に立つ2001年

専門学校卒業後も仕事で大阪にいたのですが、忘れもしない2001年、立ち直れないくらい衝撃なことが起こります。

2001年と言えば、今では覚えていない方もいる時代になってきていますが、アメリカで同時多発テロが起こった年です。

その悲惨な事件に僕の大切な人が巻き込まれ、命を失ったのです。

何のために生きてるのかわからない…人生のすべてだと思っていたことを失い、会社も辞め、引きこもるようになりました。外にも行かず、ただただ思い出と向き合うだけ。

「もう生きてる理由がない」

そう感じたら無意識に自殺未遂もしてました。でも死ねず、意味のない人生が続く。そう考えたころから、僕は感情がなくなっていきました。誰とも連絡を取らなくなり、2ヶ月くらいでしょうか?心配してくれた仲間が家まで何度も来てくれました。

でも僕は

誰とも会いたくない。。。ほっといてくれ。。。」

そう告げました。でも、そんな僕を、仲間はだれも見捨てずに支えになってくれました。毎日だれかが家に来ては

卓球・ビリヤード・カラオケ・バーべキュー・ドライブ・スキー・温泉

と挙げたらきりがないほど僕を外に連れ出してくれたのです。そして、その中でボウリングと運命の出会いをすることになります。

ボウリングと出会って生きる意味を見出す

当時、感情が死んでいたのでほとんど覚えていませんが、聞くところによると僕がボウリングをしたときだけ「イラついてる」そぶりが出たそうです。

それを見た仲間が「これだ!」と思い、僕は毎日のようにボウリング場に連れていかれました。

それから1ヶ月後…仲間と笑ってボウリングをしている僕がそこにいました。

この辺から記憶が明確にあるのですが、負けたら悔しいとか、思う様にいかないとか、曲げたいとか考え始めて、知らないうちに、一人で練習に行くようになってました。

僕と同じようにハマってしまった仲間の1人がマイボールを買ってきて曲がるボールを目の前で見せられた時に、「ボウリングの虜」にされました。

ボウリングは僕に失った感情を取り戻させてくれました
ボウリングは僕に仲間との絆を取り戻させてくれました
ボウリングは僕に生きる目標を与えてくれました

僕にとってボウリングは命の恩人なんです。だから、ボウリングに関しては一切の妥協はせずに生きてきました。

プロボウラーとなって見えたボウリング業界の現実

それから6年後、僕は幸運にもボウリングで生きていくプロボウラーとして活動するようになっていました。しかし、あそこまで憧れ、努力して手に入れたプロの世界は、当時の僕には実に残念なものでした。

1年目に徹底的に当時の上司のプロにいじめられ、陥れられ、周りの先輩プロは上司のプロがいう僕の評価を鵜呑みにし、僕を全否定されました。その結果、2年目には鬱になり、2ヶ月ほど仕事にも行けなくなりました。

耐えられなくなり、親友に「もうプロをやめたい」と相談した時に言われた言葉が印象に残っています。

「プロになれたということは、きっと何かの役割があるからだと思う。だから、まだ諦めるのは早いんじゃないか?やり切ったのか?やり切ったと言えるなら止めないよ!でも違うだろ?」

僕はその言葉を胸に踏みとどまりました。所属地区では「礼儀」が異常なほど求められていたのですが、問題は一般常識ではなくプロの世界の常識だということ…おかしいと感じて異を唱えると途端に村八分です。

ここが本当に大変で、時間はかかりましたが、プロ4年目には先輩プロもやっと少しまともな対応をしてくれるようになりました。

業界に適応する大切さを学ぶとともに、そんな業界を変えていきたいと強く思うようになります。

プロボウラーとして結果を追うためにアメリカ留学を決心

そして、2010年、僕のプロ人生のターニングポイントとなる試合が訪れます。

今はなくなってしまった、「スポルト上尾」。ここでのシーズントライアルで、僕は全く手も足も出ずにブービーで試合を終えました。

前日のリーグでは、800シリーズやパーフェクトが出るほどの絶好調であったにも関わらず、スポーツコンディションでは全く打てなかったのです。さすがに心が折れてしまい、選手控室で着替えもせずに座り込んでしまっていました。

準決勝が終わり、決勝が始まったとき、僕の恩師であるロバート・リーさんが声をかけてくれたんです。「プロとしてトレーニングも練習もしていた、でも結果はブービー。。。このままプロを続けるべきか辞めるべきか」と相談をしました。

すると、ロバートさんは僕にこう提案してきました。

アメリカに行かないか?まだ学べることはたくさんあるから諦めるのは早い。福岡みたいに一生懸命な人が辞めるのは勿体無い」

この言葉を聞いて、二つ返事で「行きます!」と言ったのを覚えています。

「アメリカで学んでだめなら諦めもつく」

こんな気持ちもありましたが、ものすごい期待をしてアメリカのケーゲルトレーニングセンターにコーチングを受けに行きました。

このアメリカ留学で、後のプロ人生に影響を及ぼす考え方に出会うことになります。

アメリカにてボウリング人生を変える「コーチング」と「レイアウト」を学ぶ

アメリカで学んだことは目から鱗としか言いようのないことでした。なぜなら、当時日本では禁止されている内容ばかりだったからです。

ここでの学びに衝撃を受けた僕は翌年もアメリカに渡り、あの素晴らしいコーチングと新しいボールレイアウトを学びに行きました。特にレイアウトとの出会いは衝撃でした!

ショートのレイアウト
ミディアムのレイアウト
ロングのレイアウト

このレイアウトを教えられた僕はすぐに試したくなって、その場で同じボールを3つ購入してすべて試しました。

結果は誰が見てもはっきりとわかるほどの差となって僕の前に出てきました。

「レイアウトでこれほど戦いやすくなるのか…」

と感動したのを覚えています。そして、日本に帰ってきてからはどっぷりとレイアウトの世界にはまっていきました。

2011年MKチャリティカップ。4種類のレイアウトと9個のコアの計36個のボールを試合会場に持ち込んで、実戦で初めてテストしたのを覚えています。周りのプロからの冷ややかな目と暴言の嵐というおまけ付きで…。

新しいことを全く認めない業界なので、さんざん否定されましたが僕はこれに賭けていましたので、全く気にも留めませんでした。

しかし、先陣を切って動いてみると、こんな尖った僕の考えでも共感し、ついてきてくれる人も出てくるものです。仲間が増え、テストする回数も増え、色々なデータが集まっていました。

コアのこと
カバーのこと
レイアウトのこと
ラインナップの組み方のこと

などなど、データが増えていけばいくほど仲間の成績が上がり始めました。僕自身も選手としてというよりはコーチとして関わる方が楽しい!という変化が起きました。

自分のために始めたテクニカルとコーチングの技術ですが、徐々に信じてくれた仲間のために使うようになったのです。

アマチュアの全国大会で優勝する選手も出てきてくれました。プロでも4人の仲間がトーナメントで優勝してくれました。

ここまで順風満帆に来ているようですが、またしても人生のターニングポイントが訪れることになります。

会社都合でボウリングを嫌いになりたくない!独立を決意

プロボウラーはボウリングの試合だけではなく、プロショップに所属して活動することがほとんどなので、僕にも「転勤」というイベントが起こります。

しかし、転勤先の上司は、全く人を信用せず、否定しかしない方でした。どれだけショップの売り上げを伸ばしても、僕のすることは否定。1年間否定され続け、ボウリングを嫌いになるところまで追い込まれました。

「このままでは、ボウリングが嫌いになる」

それが怖かったので、僕は退職を選びました。プロの仲間は全員が「仕方がない、この業界の先を考えたらそういう決断もやむを得ない」と言いました。

しかし、アマチュアの仲間は違いました。必死に止めてくれました。

「お金をみんなで用意するからドリルマシンを買ってドリルは続けて欲しい」

とまで言ってもらえたのです。会社で否定され続けていても、お客さんにとっては、いや、仲間にとってはやっぱり必要なことだったと思えました。それだけで、僕が頑張る理由としては十分でした。

「会社に属すと、何も言えなくなる」

そう考え、自分で稼げるネットビジネスを始めました。ボウリングの情熱をビジネスに向けたらきっとうまくいくはず!と根拠のない自信だけはありました(笑)

行動力と情熱だけはあったので、何とか生きるためのお金を稼ぐ力をつけ、退職。1年でボウリングの普及に集中できる環境ができました

それから、現在まで命を救ってくれたボウリングに恩返しをすべく、

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セミナー
解説者
テクニカルコーチ

など、チャレンジを続けています。

福岡三裕の今後の活動と抱負

このブログは、僕がボウリングを普及させる活動の1つです。

・僕の考える「正しい」ボウリング知識の普及
・僕の考えるボウリング業界の未来に向けた発信
・僕の主催するボウリングオンラインサロンの活動の発信

について主に発信していきます。特に、アメリカ留学で得たレイアウトの知識を踏まえ、データ収集し、データに基づいて自分が最大限結果を出すための動き方を考える「テクニカル」について特に触れていきたいと考えています。

テクニカルを用いてトップを獲っていく「テクニカルボウラー」を僕と一緒に目指していきませんか?そんな方には最大限のサポートができるよう、僕も情報提供を惜しまないつもりでいます。

大きことを言っていますが、僕はあなたと同じボウリングバカなので仲良くしてくださいってことです^^セミナーなどで見かけましたら、気さくに声をかけてくださいね♬

僕の立てた旗に共感してくれるホンモノのボウリングバカに向けて、オンラインサロンも主催しています。オンラインサロンでは外には出回らない貴重な情報をシェアしていて、僕はこの集団を起点にボウリング業界を変えていきたいと考えています。

興味がある方は覗いてみてくださいね!

テクニカルボウラー育成サロン オンラインサロン【テクニカルボウラー育成サロン~ボウリングを科学する~】の紹介ページです。 このサロンは、「テクニカル(=考える...